あれこれ考えてみた

普段考えていることのアウトプットです。

行動すること

行動すること、それが一番むずかしい。

 

なんとなく、あーしたほうがいいんだろうな。とかあーしてみるのもありだな。とか思うことはたくさんあると思う。

 

これをいかに行動し現実のものとできるかが大事なところだと思う。

 

たとえば、生活習慣だ。

 

朝は7時くらいに起き、新聞を読みながら朝ごはんを食べ、12時に昼ごはんを食べ、19時くらいに夜ごはんを食べる。そして、0時に寝る。

 

こんな生活をするべきだとは頭では分かっているが、それができないのが人間だ。

 

ただ、こういった理想を現実にすることが大人として求められている気がする。

 

永沢さんの「人生で必要なものは行動規範で、それは紳士であること。」発言の意味が少し理解できる気がする。

 

この理想は分かっているが行動できない、といった状態を解消できるような手段を見つけたい。

まずはインプットから。

 

人は勉強するときの方法として2つのパターンがある。

 

ひとつはインプット→アウトプット型である。

 

具体的には、参考書を読んで知識を貯めてから問題集を解くパターン。

 

もうひとつはアウトプット→インプット型。

 

これは、問題集を解いたのち、参考書で復習するといったパターン。

 

では、どちらが優れているのかという疑問が発生する。

 

私は前者を推す。

 

インプット→アウトプット型のメリットは、記憶を体系化できることだ。

 

これにあたり理解が必要なことに、ミラーが提唱したマジックナンバー7±2という数字がある。

 

これは人間の短期間の記憶の限界は7±2個という理論である。

 

このため、重要なのは記憶するものの種類を減らす(抽象化)ことである。

 

例えば、1、2、3、5、7、11、13、17、19、23という10個の数字がある。

 

なにも考えずこの10個を暗記をするより、1と素数という2つのくくりで分けて覚えるほうがよい。

 

なぜなら、暗記量を10から2つ(1と素数)に減らすことができたからだ。

 

参考書はこの点で優れている。

 

個々の内容が小見出しや章、節などで抽象化がされ、グループ化されたものだからだ。

 

このため、この抽象化されたものを暗記し、さらにその中身を展開する…といった形をとることができ、頭の中を整理できる。

 

アウトプット→インプット型はこの点で劣っている。

 

問題集を解き、わからなかったものを復習することは大事だが、間違えたものそれぞれを抽象化したりグループ化することはほぼ不可能である。

 

もし出来たとしても非常に労力がかかる。

 

このため、記憶に定着させるという観点からはインプット→アウトプット型の方が優れている。

 

気分に身を任せ書く

気分に身を任せ書く

 

劣等感。

それは、自分が劣っていると感じることだ。

 

私は、劣等感を抱くことが非常に多い。(他人と比較できないが)

 

例えば、自分が調べるのに苦労しているものを、他人にあっさりと調べられてしまったとき。

自分の得意な科目で分からない問題があったが、友達があっさりと答えてみせたとき。

 

悔しかったなあ…

 

ただ、先の例において、友達ではなく先生が調べたり、答えたりしたらどうだろう。

おそらく、劣等感は抱かない。

 

また、後者の例において、得意な科目ではなく、苦手な科目だったらどうだろう。

おそらく、これも劣等感を抱かない。

 

つまり、自分の持つ能力より優れた能力を持つと感じる人に対しては劣等感は抱かない。

言い換えると、自分の持つ能力と同じくらいかそれ以下と感じる人に対して、劣等感を抱く。

 

そう、自分が嫌になる…(笑)

他の人のこと下に見てるのか…と。

 

ただ、私としては、他人を下に見ているというより、自分を過大評価している方だと思う。

 

そう、プライドが高いというやつだ。

  

私の残念なところは、自分を過大評価する根拠がないことだ。

 

先の調べものの例においても、調べることを沢山練習した訳でもない。

だから、プライドが高いと自分自身で感じているが、これから明確な根拠を持とうと思う。

 

劣等感からこんな教訓を得ることができました。

夜に書く

夜に書く

 

「努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」

 

これは、言わずと知れた名著「ノルウェイの森」の永沢が言ったセリフである。 

 主人公ワタナベが永沢に対し、「世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受ける」と言った。永沢は「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と返し、その後に「努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」と言っている。

 

非情な言い方だが、実に的を射ている。

世の中の人間(自分含む)は、努力というものを正しく捉えていないように感じる。

人から必要だと言われたり、無理矢理やらされたりというのは主体的であるはずがないし、何のためにやっているのかが分からないのは目的的ではない。

このような状態で、勉強や仕事をこなしている人の多いことよ。

これは努力ではなくただの労働だ。

 

自分にとってかなえたい目標の達成のために、手段を検討し、その手段(勉強とか)を実行する。

これが努力である。

 

努力をしよう。

 

 

真夜中に書く

真夜中に書く

 

過去とは。

 

過去について考えたことがあるだろうか。

きっとあると思う。

あの時は楽しかったとか、あの時はつらかったとか、あの場所が良かった、とか。

 

残念ながら少し違う。

 

過去そのものを考えたことがあるか、という疑問である。

 

つまり、なぜ過去は存在するのか、ということだ。

そんなもん知らん、と言われたらそこまでだが、あえて考えてみよう。

 

私なりの解答は、学習のためのもの、という結論だ。

 

人間は過去から学ぶ。

そして未来から学ぶことはできない。

 

では、なぜ過去から学ぶ必要があるのか。

それは学習したものを未来に活かすためだ。

 

もし、ほかの人があなたがかけた言葉で傷ついたとしたら、あなたはそれに反省し、次からはそのような言葉をかけないだろう。

 

つまり、未来をより良いものにするために過去があるといっていい。

 

過去からたくさん学ぶこと。これが未来を豊かにすると思う。